レディ・サーディン (2003年上半期執筆)

※平凡な男の語り手が、奇妙な女と出会い、不思議な体験をする・・・僕はこの形式の小説を意外に多く書いている。現時点での最新長編『夢遊という散策』においても、この様式にのっとって展開される部分は多々見られる。とりあえず男の子と女の子を出会わせれば物語になる、という発想故か?
 この様式におけるその他の特徴は、@登場人物が男と女の各一名ずつ計二人しかいないことA取り立てた事件が起こらないことB登場人物二人の関係が恋愛関係に発展しないこと、などが挙げられる。
 特筆すべきはBである。僕ほど恋愛を書かない小説書きも珍しいと思われる。登場人物二人の間には友情は芽生えるが、恋愛に発展する事は皆無である。BoyはGirlの精神世界を垣間見て、戸惑いながらもそれに共感し、そして自分の日常に戻ってゆく。GirlはBoyに自分の世界を垣間見せ、つかの間の共有体験を経て、また一人の日常に戻ってゆく。要するに、僕は恋愛を書くためにBoyとGirlを出会わせているわけではなく、無関係な二つの日常が偶然に交差するその一瞬を書こうとしているのだろう。
 本編は、その様式によって書かれた最初の小説であり、以後の僕の多くの小説の原型となった作品である。


 彼女は頭の上に貝がらを乗せていた。そしてふるさとの潮風と、夕ぐれ時の波の音を想いながら生きていた。海は遠かった。

 さて、僕は不貞腐れたように駅前の歩道橋の横に座りこんでいた。実際、不貞腐れていた。頭のてっぺんからつま先の先まで、びしょ濡れである。今日は朝中大雨であったのに、僕は傘を持っていなかったのだ。天気予報が嘘を吐いたのだった。あまりに腹が立ったので、僕は傘を買わずに歩道橋の横に座り込み、雨つぶてが僕の全身を縦横無尽に殴るのを傍観していた。僕は空に抗議していたのだった。こんな間抜けな雨に屈してたまるか。
駅前に聳え立っている時計台が一二時を叫んでから暫くして雨があがり、今にいたる。前髪からしずくがぽとり、ぽとりと滴っては、まつ毛にひっかかって煌いている。僕はそれを拭うのも億劫になって、ぼんやりと車のエンジンが唸る音を聞いていた。
 と、ふと、道の向こうから、一風変わった女の子が歩いて来るのが見えた。水色のスカーフを首に巻き、メキシコ風(上手く説明できないが、兎に角メキシコ風なのである)のスカートをまとって、茶色の紙ぶくろ(中身は焼きたてのパンだろうか)を抱えている。そして、少し赤みがかった髪の毛にバンダナを巻き、その上に大きなまき貝の貝がらを乗せていた。最初僕は、変な帽子だなぁ、と思っていたが、彼女が近づくにつれ、それは帽子などではなく本物の貝がらである事に気付き、少し驚いた。
 そしてさらに驚いたことに、彼女は「おや?」という顔つきをして僕の前に立ち止まり、少し首をかしげた後にこんなことを言ったのである。
「つかぬことを伺いますけど、あなたは半魚人か何か?」
「いや、違う」と僕は面くらいながら答えた(なにしろ生まれて初めてされた類の質問だったので)。「ただの人類だ」
「あら」と彼女は赤面した。
「ごめんなさい。あんまりあなたが水っぽいから、海の中に住んでる生き物かと思って・・・・・・」
「これは雨水です」と僕は落ち着いて答えた。「傘を忘れたので、こんな有様に」
「そうか、人類ですかあ」彼女はしばらく思案した後、こう言った。「ねぇ、水中生物じゃないんだったら、そのままじゃ風邪をひいちゃうよ」
「だろうね」
「だろうね、じゃないわよ。下手すれば肺炎になるわよ」
「だろうね。」僕は肩をすくめた。
 彼女が口をつぐんだので、僕は勇気をふりしぼり尋ねた。「それより、君に尋ねたいんだけど」
「何?」と彼女。
「その、頭の上へのっけているものは何だい」
「これ?」(と彼女は頭上を指差してみせた)
「そう、それ」
「これは、貝がらよ!」彼女は誇らしげに宣言した。
「だと思った」僕はもう一度肩をすくめた。そりゃあ、貝殻だろうな。見ればわかる。
「さて、君は誰だ?宗教の勧誘か何かかい?」僕はすくめたままの肩を揺すりながら言った。
「違うわよ」と彼女。
「ま、とにかくついてきなさい。肺炎にかかりそうな人を見殺しにはできないわ」

♪♪♪

 僕は熱いシャワーを浴びた後、彼女が用意した不思議な服(ポンチョのような)をまとって、イスに腰かけている。机の上には白い砂が詰められたビンが置かれ、天井からは奇妙に長い魚の干物がぶら下がっている。ペン立てやくずかご、MDのボックス(当時はまだiポッドがなかった)などには、色とりどりの小さな貝がらが綺麗に貼りつけられていた。そして、さっき彼女が頭の上からおろした貝がらがぽつねんと、部屋の真ん中におかれていた。
「お待たせ」彼女がお盆を運んで来た。「どう、そのポンチョは?」
「なかなかいいよ」と僕。お盆の上にはツナ・サンドとオリーブの酢漬け、それにジンジャーエールが乗せられていた。「ありがとう」僕は丁寧におじぎをした。「おぉ、ジンジャーエールか。僕にはジンジャーエールが好きな親友がいてね」と僕は言った。「ジンジャーエールは完璧にして最高の唯一の飲みものであると言ってたな」
言い終わらないうちに胃袋が情けなく音を立てた。あまりに情けない音だったので僕等は笑った。「胃袋は雄弁ね」と彼女。
「それはそうとして」僕は天井からぶら下がっている、さっきから気になっていた物体を指差した。「これは一体なんなんだい」
「これは、私の故郷にしかいない魚の干物なの」彼女は指でぽんぽんとその物体をはじいてみせた。
「なんていう魚?」
「さあ。名前は知らない。みんなはナガウオって呼んでた」
「名前と言えば、」と言いつつ僕はツナサンドに手をのばそうとして、上目遣いに彼女を見た。“どうぞ”と手で合図され、僕はそれを頂いた。
「名前と言えば、何?」と彼女もサンドを食べながら言った。
「名前と言えば、まだ君の名前を聞いてなかったな」
 彼女は名を名乗り、その後で「でもみんなからはサーディンって呼ばれてる」と補足した。
「いわしちゃん、ってわけ?」
「うん、そうよ」
「サーディンか。」
僕はしばらく舌の上でその言葉を転がしてみた。サーディン、サーディン、サーディン・・・・・・・・・・・・。
そして、オリーブの酢漬けを一粒つまみ上げ、今度はそれを転がした。
「海が好きなのよ」サーディンは言った。
「故郷は港町なの。よく子供の頃は屋根の上へ上って一日中海を眺めてたっけ。ねぇ、」サーディンはひとつサンドイッチをつまんだ。「ちょっとおかしいでしょ?一日中海を眺めてて飽きないなんて」
「いや、そんな事ないよ」ショウガの香りを吸いこみながら僕は答えた。
「だって海は一瞬たりとも、表情を変えないでいる事はないからね。どんなに静かな時でも小さな波は走ってるし、太陽の光が水面を転がっている。」
サーディンはうれしそうに微笑んで、話し続けた。
「海を見ながら色んなことを考えた。自分の将来のこと、とるに足らない悩みごと、忘れかけたこと、今どこかで生きている誰かのこと、それにまあ、いかにも少女が憧れそうな夢想、でもそうやって考えたことを人に話そうとしても、ノートに書きとめようとしてもどうしても上手くいかなかったよ」
「語ることが大きすぎて、語れないんだよ」と僕。
「結局だまってるのが一番のおしゃべりってことかも」とサーディン。
「かもね。」と僕。

 それからツナサンドがなくなってからも、僕等は飽きることなく語り続けた。彼女は、自分は潮風のことばがわかり、魚とテレパシーで対話できるのだと話した。
「学校に行く時に、いっつも海岸沿いの道を通ってて、そこはいっつも潮風が吹いてるわけなんだけど、時々声がフッと聞こえるのよ。“今日は雨が降るぞ”とか、“やっと春めいてきたな”とか。ずいぶんと長い間、一体誰が私に話しかけてるんだろうって思ってたんだけど、今思うとあれは潮風のことばだったのね」
「潮風と友達だったのか。魚たちとも仲良やっていた?」空っぽになったオリーブの瓶を目の前にかざして、僕は尋ねた。
「魚たちは最もよい親友だったの」とサーディン。
「こんなに大きい(と彼女は両手を広げてみせた)魚から、こんなに小さい魚まで(と彼女は指で5センチくらいの長さを示した)色んな子がいた。
私はいつの間にか、その子たちと心を通わすようになったの。でもそう言うと、魚には心なんてないって笑い飛ばす人がいるんだけど、どう思う?」
「そうやって笑い飛ばした奴こそ、心がないんだろうよ」と僕は言った。
「そうよね!」とサーディンは言って、僕の手からオリーブの空き瓶を取った。オリーブの瓶は昼の陽光を集めて、不思議な光を放っていた。

「魚たちはやさしいわよ」サーディンは言った。
「子どもの頃は毎日が退屈で、しょっちゅう海へ行った。でも私はあんまりよくは泳げなかったんで、浅瀬でパチャパチャやってただけなんだけどね。それがとりとめもなく砂浜のヤドカリやカニ、それに水の中で出会った魚達に心の中であいさつしてた。“こんにちわ、カニさん、今日も素敵なハサミですね”って具合に。」
「そうしたら、彼等は返事を返すようになったと。」
「そういうことね」とサーディン。
「最初に返事をしてくれたのは、タコだった。砂からずるずるっと出て来たところに、私が通りかかったの。たしか小学校の三年の時だったかしらね、それは。私はそのタコさんに向かって“こんにちは、たこさん。お出かけですか?”と話しかけた。そうしたら、“嬢ちゃん、まさか俺をとっつかまえて食おうなんぞと考えちゃいないよな”って声が、私の頭の中に聞こえてきたの。」
「魚介類の精神感応!」僕は歓声を上げた。
「それ以来ね。ありとあらゆる海の生き物と対話できるようになったのは。」とサーディン。
「あの名前を知らない黄色い三角形の魚、それに岩にはりついてた藻とはよく一緒になぞなぞをして遊んだものよ。それから意外なことに、貝は本当はとっても雄弁なのよ!せっせと砂出しをしながら私に自分の生涯について語ってくれたわ。イカはたくさん古い歌を知っていて、トビウオはとっても冗談がうまかった。二人がそろうとちょっとしたラジオ・ショーのはじまりよ。ヤドカリは少しつっけんどんで、でも何かと私を気にかけてくれて・・・・・・。」
「その頭の貝ガラは、彼からもらったものかい?」と僕。
「そうよ」パチンと彼女は手をたたいた。「中学入学のお祝いにね」
「ファンタスティックだね」
「今でも魚を見たら、ついつい話しこんじゃうよ。」
 そう言って彼女は大笑いした。
「魚と会話するなんて、とても奇妙に思えるでしょう。でも、私にとってはそれはあまりにも自然なことで・・・・・・。私は全然不思議だと思っていなかったし、今も思っていないよ」
そして、彼女は少し哀しく笑って言った。
「町を出る時、私がお別れを言った相手は、魚たちだけだった」


 気持ちのよい午後だった。僕とサーディンは、この世界の全てを語りつくしてしまいそうな勢いで、お喋りを楽しんだ。気がつくと、ジンジャーエールのおかわりもなくなり、もうすぐ日が暮れようとしていた。今、彼女のふるさとでは風が凪いでいるのだろうか…僕はそんな事を考えた。
 僕は、サーディンが頭の上へ乗せていた貝がらに手を伸ばした。その貝がらは、かすかにサーディンの髪のにおいがした。僕はれをそっと、耳へ当ててみた。
 波の音がした。
「それは、わたしのふるさとの音」とサーディンは言った。
 耳をすませていると、いつの間にかここはサーディンの部屋ではなくなり、美しい夕暮れの海辺に変わっていた。僕とサーディンは砂浜に腰かけて、目の前へ広がる大きな海をしばし無言で見つめていた。
「君がなぜこれをいつも頭の上に乗せてたのか、わかったよ」と僕は言った。

 そう、彼女は頭の上に貝がらを乗せていた。そしてふるさとの潮風と、夕ぐれ時の波の音を想いながら生きていた。
 
 素敵なことだ。

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